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Oshoとの初めての出会い


1969年3月29日夕方、私が初めてマスターに出逢った運命的な日を私は今でもはっきりと覚えている。当時彼はアチャリヤ・ラジニーシと呼ばれていて、まだ30代だった。私はパタン大学で工学技術を勉強している学生で、シンハ図書館という所によく通っていた。そこで工学以外の様々な学問を勉強していた。 その運命的な日、その図書館で占星術の珍しい本の中の自分のホロスコープをみていた。木星がよい前兆の位置にあり、意義深いことが起こる予感がしていた。図書館を出ると告示板に貼ってある小さなパンフレットが私の目に入った。そこにはアチャリヤ・ラジニーシがシンハ図書館の庭でその日の夕方に講話を行なうということが書いてあった。 当時私はほとんど全ての宗教的な集まりに参加していた。その日は時間より少し前に図書館の庭で待っていた。その当時OSHOはジャバルプールにまだ住んでいて、あまり知られていなかったが、その日は300人ほどの人々がOSHOの講話を聴きに集まっていた。


そして6時ぴったりに、 がっしりとした体に、艶々とした長い髪と髭をたくわえた 優雅で神々しい人が姿を表した。着ているルンギに染み一つなく 蓮の花のように柔らかいボディーは白いショールで覆われていた。 額は光り輝き、大きく美しい眼は愛と慈悲に溢れ、カリスマ的で催眠的な雰囲気すらあった。私はそのようなこの世のものとは思えない優美さにすっかり魅せられてしまっているようだった。彼は優しく笑いながら手を合わせて聴衆に頭を下げた。歌い手の女性がKabir Bhajanを歌い始めた。熱帯地方の3月の夕刻はうっとりとした雰囲気で、雄大なるガンジス川の流れから作り出される新鮮な空気とともに、アチャリヤ・ラジニーシの神々しい存在に圧倒され、私の好きなKabir Bhajanのメロディーに恍惚とした。


私の眼から涙が流れはじめた。 隠そうとしたが、無駄だった。 私のハンカチはびしょ濡れになって、クルタの前側も濡れてしまった。 その時私の人生の中の全ての苦痛がこの二つの眼から涙として流れようとしているようだった。このような不思議な状態に陥ったことに私はすっかり驚いてしまった。アチャリヤはまだ一言も喋ってないし、私はただ彼を見つめているだけだったにもかかわらず、様々な感情に打ち震えてしまった。彼の存在が私の中にある未知の何かの引き金を引いたのだろう。


ついに彼がとても甘く音楽的な声で"Mere Priya Atman"と言った。それは"My Beloved One(私の親愛なる者)"という意味があり、その言葉に込められた誠意と愛が私の心に深く染み込んだ。 そしてまた沢山の涙が私の頬を濡らした。私に付いてきたクラスメイトは何故私がこんなに泣いているのか理解できなくて、困惑して私をみていた。 このどうかしている感じ(狂気の沙汰)を正当化するために、友人のグプタに「アチャリヤは僕がいままでに逢った人の中で最も美しい。だから未知の喜びと痛みが湧き上がってきたんだよ。」と言ったが、ボリウッドが大好きなグプタは全く理解できなかった。

アチャリヤ・ラジニーシはちょうど一時間話した。彼の講話は燃え立つ炎のようで、これまで私の持っていた信念体系をすべて無残にも燃やし尽くした。その当時私はグル巡り(グルショッピング)をしていて、北インドの殆ど全ての有名なマスターたちに逢っていた。名前をここで挙げるときりがないが、Mahrshi Mahesh Yogi, Anandmurti jee, Anukul Chand Thakur, Hansjee Maharaj, father of Bal Yogeshwor, Sw. Shivanand jee, Ram Krishna Missionなどである。イニシエーションさえ受けたマスターもその中にはいる。この不条理で残酷な社会の搾取を終わらせ、正義をもたらそうという大言壮語な大義のために沢山の政治的な活動に積極的に参加したこともあった。学生時代のある期間マルキスト学生連盟のメンバーだったころもある。OSHOに逢う直前まではマハトマ・ガンジーの信奉者で、彼の教えのとおりシンプルで誠実な生きかたをしようとしていた。

しかしアチャリヤは禁欲主義、ガンディーのイデオロギーや他の精神的指導者たちを徹底的に批判した。彼は当時私が持っていた伝統的な信念体系と全く反対の事を話したのだ。私はすっかり二つに分裂したかのようになってしまった。私のマインドは彼が言っている事に同意していなかったが、私のハートは不思議な事に彼の事を受け入れていた。


聴衆者の中のひとりの男性が「ガンディーは聖人だったから、いつも三等車の列車に乗っていた。しかしあなたは聖人にもかかわらず、何故いつも一等車に乗るのか?」と質問した。 アチャリヤは答えた。「ガンディーはインドの列車には四等車がないから、三等車にいつも乗るのだと言っていたらしい。しかし私はインドの列車にはエアコン付きの列車 がないから、一等車に乗るのだ。インドの列車がエアコンをつけたら直ぐにでもその列車に乗るだろう。私はガンディーのように貧困を賛美しない。なぜなら、貧困は愚かさと非科学的な思考の結果だからだ。世界中が科学的発達を利用しているのにもかかわらず、なぜ私たちは不便な三等車に乗るべきなのか?」

これまで私が持っていた信念体系はその1時間の講話で徹底的に爆破されてしまった。絶えず私の頭は彼が言った事に対して議論をしていたが、私のハートは全て受け入れすでに明け渡す準備が出来ていた。精神的指導者の探求は終わりを告げ、幼少時代から強く求めていた人についに逢えたと心の深奥で感じた。私は時間と空間を超え別の次元にいたような感じがしたが、彼が「貴方たちのハートの神に合掌します。」と言って講話を終えたとき意識がまた現実に戻ってきた。アチャリヤの「Ukrant」という教えに基づいた隔週雑誌の創刊号が売店にあった。私は3ルピーしか持っていなかったので、年 4 回発行の雑誌のメンバーにしてくださいと頼んだ。それは親切にも受け入れられた。私の人生だけでなく他の沢山の人々をも変えたこの雑誌にいまも感謝している。

夜の8時にJaina Samaj氏によってRabindra Bhawanという所でオーガナイズされ、アチャリヤが短い間だがマハビールについて講話を行いその日の夜にJabalpurへと帰るということが発表がされた。私はその時お金が一銭も残っていなかったので、彼が乗っているアンバセダーの後ろを3kmほどRabindra Bhawanまで走った。 そして、Rabindra Bhawanでもマハビールの盲目的な信奉者を批判しマハビールの教えに新しい意味と真の価値を与えた。 またもや彼の知恵と新鮮な洞察力に魅せられてしまった。彼は講話が終わると、すぐに車で駅へと向かった。もはや彼の車を後ろを走ってついていくエネルギーは残っていなかったので、ゆっくりと大学寄宿寮へと5km歩いて帰った。


私のDwarikaでの初めてのキャンプ


3月29日の夜アチャリヤはToofan Mail Exressという列車でジャバルプールに戻った。 私は彼に手紙を書き始めた。私の人生は質問や問題で一杯で、彼にいまの私の置かれている状況を書いた。彼はすぐに美しい文字で返事をくれた。手紙は文章の量は少なかったが、私にとってメッセージやガイダンスに満ちていた。彼はある手紙で「瞑想が全ての問題への唯一の解決法だ。瞑想を通じて、貴方はスピリチュアルなエネルギーを得る。そのエネルギーに貴方が満ち溢れたら、あらゆる障害は無くなり貴方の問題は消えてしまう。10月にDwarikaでメディテーション・キャンプがある。もし参加できるようなら、参加しなさい。その事についてもっと詳しく話そう。」と最後に書かれていた。

長い距離を独りで旅することは当時とても大変なことだった。 だから私は友人に付き添いを頼んだが、誰も準備が出来ていないようだった。 仕方なく嫌々ながらカトマンドゥーに戻ったが、 不思議な力が私をOSHOへと引っ張っているようだった。 その時カトマンドゥーでは祭りがやっていたが、私は心が落ち着かず全く楽しめなかった。 このままカトマンドゥーに居てもしょうがないので、とうとうDwarikaまで独りで旅をする決心をした。独りで行くと決めたら、私の中に溢れんばかりのエネルギーがやってくるのを感じた。 普通だったら祭りのとき列車を予約をするのはとても難しいのだが、簡単に予約は取れた。そしてDwarikaまでの道中、沢山の人々が親切にも私を助けてくれたのにはとても驚いた。 そして長い旅の末やっとDwarikaに着いた。それが忘れもしない1969年10月の事だ。

今でも海の近くに行くと、不思議(神秘的な)なアローンネス(独りであること)のスペースに導かれ、内側に至福を感じる。 私の小さなエゴは広大で深遠な海のまえで明け渡され、自分の内側に静寂や平安を感じ自然と精神が高揚してくるのだ。 Dwarikaという場所は何千年もの前にクリッシュナによって統治されていた。アラビア海を背景にしてOshoの神秘的な存在は私の意識を新たな領域に高めた。アラビア海の砂浜で行なわれた瞑想は私を深くから変容させ、私の人生さえも変えてしまった。OSHOがすぐここに在るというリアリティー、彼の講話とともに、「死のアート」という瞑想法によって私たちは不生不死の不思議なスペースへと導かれた。 このキャンプでOSHOが話した講話は“Mein Mrityu Sikhata Hu (In hindi)”というタイトルで後ほど出版されることになる。


キャンプの参加者のほとんどはグジャラート州とマハーラーシュトラ州の人たちで、インド以外の国の参加者は私だけだった。キャンプでは偽善や様々な条件付けから自由でフレンドリーでハッピーな人たちに私は初めて逢うことができた。キャンプの初日からOshoは次のような講話をした。 「魂は不滅だとヒンドゥー教信者は言うが、誰もそれを体験していない。それは経典から借りてきたただの概念や考えにすぎない。光明を得た一人の人間は村全体に悟りを与えることが出来る。あたかも美しい女性の存在はその環境の波動を変えてしまうかのように。また咲いている花はその芳香によって周囲を変えてしまう。全く同じように光明を得た人間は周囲の波動と精神を変えることが出来る。インドには1000万人以上もの伝統的なサニヤシンや修行僧がいる。彼らは神聖なるものを悟ったと言っているが、彼らがしていることは自らの体に様々な拷問をしたり、禁欲をして一般大衆を引きつけているにすぎない。しかしそれは瞑想ではない。 むしろ宗教的なサーカスだ。1000万もの光明を得た人々がいるなら、この国はこんなにも滅茶苦茶のはずがないだろう。彼らは真の探求者ではなく、ただの偽善者だ。実際に彼らのせいで、私たちは物質的に貧しく道徳の意味も勘違いしている。一般大衆の人々がいつも全然変わろうとしないからと非難するべきではない。もし何か間違ったことがあるなら、それはいわゆる聖人や修行者を非難するべきだ。彼らは人々の品性を変え、大衆をもっと道徳的にすると言い続ける。しかし彼らはそれがほとんど不可能に近いことだと知らない。普通の人々は同じままだ。もし私たちが世界を変えたいなら、そんなに多くの人は必要ない。しかしそのような人々は社会の光となるために強烈な変容を経なければならない。その後何百万もの魂を導くことが出来る。だから私が必要なのは100人ばかりのそのような人だ。そのような人々がある程度の意識の高みに達したら、他の人類は変わることができる。グルジェフやヴィヴェカナンダは”もし100人の真の瞑想家がいれば、時代の流れを変えることが出来るだろう。”と言った。しかしグルジェフたちはそのような100人の人々を見つけることが出来なかったので、欲求不満を残して死ななくてはならなかった。 私もそのような100人の人々が必要だが、彼らのようにフラストレーションをかかえて死ぬつもりはない。私はあらゆる場所を旅をして、そこで出逢った人々の眼をみて変容の可能性がありそうな人を見つけだす。そしてそのようなポテンシャルを持った人を見つけたら、 あらゆる努力をして私は彼らを変容させるだろう。だからもし貴方が勇気と覚悟があるなら、私についてきなさい。生と死を超越した神秘を明らかにしよう。」 その夜私はアチャリヤの情熱的な講話にすっかり感動して、全く眠ることができず満ち溢れるエネルギーのせいで武者震いをしていた。そして次の日に私は彼に小さなメモを書いた。「アチャリヤ、これからは他の残りの99人を探してください。たったいま貴方のところに1人到着しました。」


しかしOSHOは言った「ネパール全土が私の色に染まるだろう。


36年経ってもなお、Dwarika瞑想キャンプの記憶は私の頭の中で色褪せることはない。私は毎日、日の出と夕暮れ砂浜での瞑想をとても楽しんだ。一番素晴らしかったのは午後に行われたOSHOとのサイレンス・ディスコースの時間だった。

OSHOは「言葉というのはコミュニケーション手段としてあまり適切なものではない。」と言っていた。人々は同じ言葉から違う意味を引き出す。だから同じ真理に対してこんなに多くもの解釈があるのだ。サイレンスが真実を伝達するには最も相応しい手段である。ハートからハートの交感はサイレンスを通してのみ可能だ。」と話していた。


サイレンス・ディスコースは毎日午後3時から4時の間に行われ、サイレンス・ディスコースに参加する前には必ずシャワーを浴びるようにとOSHOは指示をしていた。OSHOはいつもちょうど3時に外に出てきて椅子に座り、みんなOSHOの神聖な存在と共に深く静寂へと入っていった。OSHOは真っ白のルンギとショールを身に着けていた。彼の存在はマインドに静けさをもたらし、誰もがとても簡単にサイレンスへと深く入っていくことが出来た。それは深いトランス状態のようで、ヨガでは睡眠と覚醒の間のこの状態を“ヨガ・ニドラ”と呼んでいる。

アチャリヤ・ラジニーシ(OSHO)を批判する人々は彼は催眠術を使っているとOSHOを非難したが、催眠術は話すことをしなければかけることはできない。それは魔法のような彼のプレゼンス(存在)と悟りがみんなを深いトランスに導いたのだ。 私はキャンプの参加者の中で一番若かった。OSHOと個人的に逢うためのアポイントを取ろうという勇気がなかったが、勇気を振り絞ってその日古参のサニヤシンにOSHOはいまどこにいるのかを尋ねた。OSHOの居場所がわかったので、次の朝早く6時にアラビア海の浜辺にある彼が滞在しているゲストハウスに行った。彼が滞在している部屋には椅子とベッド以外何もなかった。大きな窓が付いていて、そこから広大なアラビア海を眺めることができ外には庭もあった。OSHOはバスルームに居たので、私は部屋で彼がバスルームから出てくるのを待っていた。ちょうど海の向こう側の地平線から太陽が顔を出すところだった。しばらくすると真っ白のルンギを着たOSHOが部屋に入ってきた。彼は体格がよかった。長い黒い髭をはやし、おでこは輝き、鋭く透き通ったあの二つの眼がそこにあった。

私はアポイントメントを取らずにその部屋にいたが、OSHOは何も言わなかった。むしろ優しげに「どこから来たんだね?」と私に尋ねた。私はとても緊張していたので、素早くひと呼吸で「私はカトマンドゥー出身で、工学技術を勉強しています。以前あなたに何通かパタナから手紙を出しました。」と答えた。OSHOはしばらく私の目を見て、「ああ君かぁ!全部覚えているよ。」とタオルで体を拭きながら言った。OSHOは椅子に座り、私は大理石の床に座った。彼は私にベッドに座るように勧めたが、OSHOのベッドに座るのはさすがに躊躇した。それでもOSHOは私にベッドに座るようにと言ったので、私はそれに従った。

それから、私は自分の抱えてる問題をOSHOに投げかけた。彼は辛抱強く私の質問に耳を傾けてくれた。その時キャンプの運営者たちが部屋に入ってきた。彼らは前もってアポイントメントを取っていないのに何故私がそこにいるのか疑問に思っていた。


「みてごらんなさい。私のメッセージは遠くネパールまで知れ渡った。この若者はネパールからこのキャンプに参加しに来たのだ。」

キャンプ運営者のみんなが驚いているのをみながら、OSHOは称賛の言葉とともに私を彼らに紹介してくれた。

私はOSHOに自分自身が過去にしてきた修行方法や宗教的な生活、それにブラマチャリヤのことなどを話した。

「君はギータ出版社の本を十分すぎるほど読んできた。」 (ギータ出版社は伝統的なヒンドゥー教の宗教的な書物を安い値段でインド中に出版している。)

OSHOは私に最近出版された彼の「セックスから超意識へ」を読むようにと忠告してくれた。

「いま外国から招待されていて、3月にナイロビに行くことになるかもしれない。」 とOSHOは言った。

無邪気にも私はOSHOに「アチャリヤ、外国に行かないでください。」と言った。

「何故かね?」と彼は私に訊ねた。

「貴方の事は外国人のあいだに簡単に知れ渡るでしょう。沢山の人々が貴方を取り巻くようになったら、こうやって貴方に逢うことは私たちのような素朴な連中にとって非常に難しくなってしまうでしょうから。」と私は答えた。

そうするとOSHOは「聞いたかね?この若者はよくわかってる。彼が言ったようなことが近いうちに実際に起るだろう。」と言った。

OSHOに褒められて、私の中に自信と勇気が沸いてきた。その勢いで私は 「アチャリヤ、3月にはナイロビではなくてカトマンドゥーに来てください。」と言った。

「カトマンドゥー滞在の準備をすることはできるのかね?」 とOSHOは言った。

私は自分自身を買いかぶり、「両親は政治家の家柄で、ネパールでは顔がききます。だから大丈夫です。」と言ってしまった。

そうするとOSHOは「わかった。ではどこかホテルではなく君の家に滞在させてもらうことにするかな。」と言った。

その当時私の両親はカトマンドゥーのプタリサダクの貸家に住んでいた。 快適とは言えない自分の家を思い出すと恥ずかしくなった。

だからOSHOに代わりのアイデアを提案することにした。「私の家は貴方が滞在するのに相応しくないと思います。有名なニューロードにあるパラスホテルを用意するので、そちらに泊まってください。」

そうするとOSHOは「ホテルに滞在しようとは思わない。私は快適さが必要なわけではなく愛が必要なのだ。君の瞳から溢れ出ている涙。その愛だけで私には十分だよ。」と言った。

「カトマンドゥーの人々は瞑想にはあまり興味がないかもしれませんが、貴方の話を聴いたり、貴方にインタビューをしたがるでしょう。」と私はコメントした。

しかしOSHOはその意見に同意せず、「君はネパールの宗教性のポテンシャル(可能性)をいまだ知らない。もし君が本当に私を助けてくれるなら(もし君を通して私がワークするのを許してくれるなら)、いつかネパール全土が私の色に染まるだろう。」と言った。


From Swami Arun's Article on OSHO Tapoban OSHO Tapoban 日本語訳:Sw. Nirdosh Yaqin

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